わたしが改めて言うまでもないですが、聖徳太子ってすごいんですよ〜〜(笑)

これまでの人生で

学校や部活など自分が所属する集団が

荒れてたことがあるだろうか?


 

「このままでは駄目だ...」

 

 

誰かに言われて、あるいは自分で感じて

「その立て直しの使命」を

自分のものとしたことはあるだろうか?

 

 

 

時は今から1500年前。

ちょうど大和政権の時代。

  

  

 

大和政権は連合政権である。

連合政権というのは非常にやりにくいというイメージとしては持っておきたい。

 

 

 

例えば学校のクラスに発言力の強い人が三人いたとする。

 

自分は学級委員だとして

もしその三人がそれぞれ仲悪かったら

文化祭の話し合いなどは全く進まない。

 

学級委員なんてならなきゃよかった、、、と気落ちモノである。

 

 

 

会社でもそう。 

 

ある偉い人がイエスと言っても

別の偉い人がそれを覆す権限があったりすると大変だ。

 

それぞれ力があって、発言権もある。考えものである。

 

 

ところで500年。

 

 

連合政権の一族の中では大伴、物部、蘇我、が有力だ。

 

三者はそれぞれ大連、大連、大臣と姓の格に差はない。

 

 

大和政権の政治では格が物をいう。

 

 

当然である。

王権が成立して200年以上が経過している。

地盤はそれぞれ固まっているのだから。

 

 

当時、継体天皇のときには

大伴金村が豪族の中でも力を持っていた。

 

 

 

 

何もなければそのままだったのだが

朝鮮半島で動きがあった。

 

 

 

高句麗と新羅が南下をし領土の拡大の動きが始まった。

 

押し出されるように百済も日本の勢力下にある任那の地へ。

 

 

 

ここで外交政策の中心となるのが大伴金村だが

金村はこの動きを抑えきれず

従来の任那の約半分の領土4県を百済に割譲してしまう。

 

 

 

この失策を朝廷内のライバルたちは許さない。

 

 

 

途端に大伴金村の立場は危機に立たされる。

 

 

 

さらに任那挽回のために派兵を決めるが

その兵たちが九州で逆に、朝鮮半島の新羅を後ろ盾に大和政権に反旗を翻す。

 

 

527年、筑紫国造磐井の乱

 

これを物部麁鹿火が鎮圧して抑えることに成功するが

よもや大伴金村は失脚する他なく

同時に日本は朝鮮半島の拠点をすべて失った。

 

 

 

550年ころ。

欽明天皇の在位時に、半島から仏教が伝わる。

 

政権内では

蘇我氏と物部氏が対立をしているが

仏教に関しても受容と排斥で意見が分かれる。

 

 

 

受容派の蘇我稲目と排斥派の物部尾輿。

そして息子の蘇我馬子は587年に同じく息子の物部守屋を滅ぼし

連合政権の中でついに大きな力を持つにいたった。

 

 

 

しかし学校でもそうだし

会社でもそうだが、強引な手腕を用いた

他者の排斥は当然強い反発も生む。

 

 

大和王権は今、揺れている。

 

 

そんな中、589年に中国で巨大な国・隋が興り

朝鮮半島も支配下に置こうと動き出した。

 

 

日本は当然

何も策を講じないわけにはいかない。

 

 

 

592年に蘇我馬子は崇峻天皇までも殺害し

いよいよ王権は混迷を極める。

 

 

 

そんな時

推古天皇を即位させ馬子が

摂政に登用したのが聖徳太子だった。

 

 

 

 

聖徳太子はこの難局をどういう政策で乗り切るのか?

 

 

 

 

実は聖徳太子、現実的な手腕がとても優れている。

 

 

わたしが偉そうに言うことではないですが...(笑)

 

 

 

 

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